昭和40年 日付不明 テープ№40-048A面-3
御理解に、自分がおかげを受けた事を、実意丁寧に人に伝えて行くのが神へのお礼と。自分がおかげを受けた事を実意丁寧に、人へ伝えて行くのが神へのお礼と、神様のお礼になる。しかも、それが神になるぞとまで最後に仰っておられます。このへんのところ、この御教えを頂いて見ますと有り難いんですけど。これまで私どもは、こう何か、本当にあの奇跡的なおかげを頂いたとか、いわゆる、その霊験ですね。その霊験です。本当に金光様に参って御覧なさい、もうこげな有り難いおかげを頂いたと。こうして自分のおかげを受けた事、そういう事を人に伝えて行くという風に感じておったんですけども。私は、おかげを受けた事をということは、その日々こうしてお参りをするでしょう。ね、そして朝、まあ、夕にこのお参りをされる、御理解を頂かれる。そして、その御理解が、はあ、ほんにそうだなと。それどころじゃないなと、有り難い御理解だったなと、という風にです、自分がその御理解を頂きながらおかげを受けた事を人に伝えて行くという事も言えると思うですね。ね。例えば、病気で苦しんでおる人にです、自分が病気でおかげを受けた事をです、ね、それをそのままに、有り難かった事を人に伝えて、その病人の人が導かれて助かる。なるほど、助かって行くんですから、やはり、その助かる事によって、それが神になって行くような働きになるのでしょうね、やはり。だから、そういう、この伝え方とです、日々自分がお参りをさせて頂いて、自分が体得させて頂いたおかげ。御理解を頂いてから、有り難い御理解だったなと。それで、自分がおかげを受ける。その事が、もうおかげを受けたこと。ですから、その事を人に伝えて行くと言うて、まあ、誰を彼をいきなり捕まえて伝えて行くと言うのではなくてです。そういう、いわば話を伝えて行く雰囲気をです、祈らせてもらう、願わせてもらい、一言でもこう、それを伝えて行くという事がです、私は大事なことじゃないかと、こう思うんですね。今日、私はの、高橋さんのお店に今日はお休みでしたから、一家中、一家中というより、あの、子供二人と、それから奥さんと親子四人連れでお礼に出てまいりました。だいたい、そのゆっくりするつもりだったんでしょう。沢山、(お神酒?お肉?)ども買うて来て、まあ、一緒に、まあ晩餐でも頂こうという腹じゃなかっただろうかと、もう思うんです。ゆっくりされて、まあ、その中にです、まあお話の中に、そんな事を私は感じたんですけどもね。最近、先生おかげを頂きまして、その家の家内が非常におかげを頂いてくれますと、こう言う。それに、まあだ椛目にお参りをさせて頂いても、ただお参りさせて頂いただけですね、その家内も聞こうとも思わんし、またこっちも伝えようとも思わない。ところが、何かのキッカケからですね、私が本当に有り難いと思うた事を家内に伝えたって。それから家内がです、私が、もう帰りをいつも待つようになったと言う。まあ、私もまた伝えて行く事を心から、あの、聞かせて頂くようになった。それで、それが御理解だけじゃありませんと。もう、椛目の、まあ、現在様々な状況。今日は遅うなったばってんね、こういう風なであったと。それが本当に有り難い事じゃないかと言うて、その有り難い事じゃないかという事に、本当に有り難い事ですなという風に共鳴してくれるようになったと。ですから私が椛目のここで繁々と出て参ります事が、非常に出て来るようになったかとかではなくてです、彼の信心になって行くという事です。で、今日の御理解はどんな御理解でしたかとこういう訳なんです。ですから、期せずして私が頂いて帰るそのおかげが、家内の共々に頂けれるようになった。もうこういう雰囲気がですね、本当におかげを受けておりますと言うて、その話しております。ね。これが家内だけではない。ね、家族中の者に、ね、そういう雰囲気が生まれ、また、自分のおかげを受けて来た事を伝えるなら、神様のお礼と思うて伝えさせて頂くようになり。それが、自分と関係のあるお仕事の上にでも、人にも、隣近所の方にも、親戚の人にも。ね、その機械を頂いたら、機械を見付けたら、いや、その機械を祈らせて頂きながらです、自分の中に受けた事を人に伝えれる場というものをです、機械をです、私は作らせて頂く事を願わせて頂くという事がです、神様へのお礼になるという事になり、しかもそれがです、神になるのぞとまで言うて下さるような働きになって来た時です。本当に、最近、一家勢を揃うての信心が椛目全体に求められております。そういう時に当たってです、こう風にしよう、こんな風に頂いたら有り難い事になるなあ。もう、家の家内に(言うてっちゃ?)分からん。聞いたっちゃせからしかちゅうごたる気持ちでは、だから何時まで経っても分からん。ね、と言うて、聞こうごつないどんをしっつかまえて聞かせようと言うても仕方がない。先ず、そういう雰囲気とお繰り合わせと、先ずは自分がやっぱ自分がおかげを頂いて帰らなきゃ駄目なんだ。ほんなこて、今日の御理解はどげな御理解じゃったろうと言うて、もう御理解が済んだ時には、自分がその今日の御理解すらを体得してない。また、椛目参りをしてもです、有り難いという実感もなかったとするなら、伝える事は出来ませんね。自分が有り難いと感じたその事を伝える。椛目でも様々な一つのニュースでもです、椛目のニュースを、今椛目ではこういう事がありよるもんねと、これを養いよるもんねと。ね。本当に考えて見りゃ有り難い事じゃないかと。と、例えば夫婦の間にそういうような話し合いが出けれるようになる。しかもそれを、神のお礼として伝えられるようになり、ね、それを聞かせて頂く事がまた楽しみというような、あの人の話を聞かせてもらう。ね、信心の話を聞かせてもらう事は、その有り難いと。久富、あの、(君寵さん?)のお母さんの伊藤さんですね。あっちはまだ、初めてここに御神縁を頂かれた頃に出られておりました。この頃は、もう親戚の者が、もう、いわゆる繁雄さんのところですたいね。あちらに参りますと、もう繁雄さんの話を聞くとが皆が楽しみで、この頃はそのおっつぁん、叔母さんですたいね、いわゆるその人達が集まられて、またこの後繁雄さんの話を聞く事が楽しみで集まりますたい。私も、ただそんな気持ちで、ただ、あの聞かせて頂きよったのがです、この( )頂いてから拝みが出けるようになってと言うて、いつか話された事があります。で、親戚の者が集まって来たら、雰囲気をです、例え信心はせんで、参っては来んでもです、信心話が楽しみと言うて、なら、おっつぁん、叔母さんが( )時に集まって下さるとですたい。繁雄さんの話を聞くとを楽しみにしとりますと言うて、その、仲良うな雰囲気がです、ね、自分の家庭だけではない、親戚中だけではない。自分の周囲に押し広めて行くという事が、神にお礼をという事になるのじゃないだろうかという風に感じるですね。おかげを頂きました。